東日本大震災⑧ 巡回診療開始

 自衛隊としては、衛生隊が暇なことは喜ばしいことです(反面、これが防衛医大卒業生の悩みの種でもあるのですが・・)。幸いなことに現地隊員は概ね健全でしたので、我々を含めた衛生隊は暇を持て余すことになってしまいました。基地はがれき処理、不明者捜索など市内の復興支援にのりだすと聞き、我々衛生隊も避難者への医療支援を申し出ることになりました。当初は復興支援の隊員が負傷した際の対応を優先してほしいと難色を示されましたが、松島衛生隊員たちの熱心な働きかけで、我々派遣隊と松島衛生隊のうち片方が基地に残り、他方が巡回診療するとの条件で許可がおりました。

松島市役所の震災記録で触れられていますが、当時緊急対策本部では、避難先の全体像を把握するのに大変苦労されておりました。電話等のインフラが活用できないことから、市職員たちが手分けをして集会所、公民館、学校、幼稚園、高台の家など、目星のつくところを紙の地図を頼りに手あたり次第尋ね歩かれたようです。その際大いに手助けになったのが、地域のつながりの強さだったそうです。避難所に身を寄せている住人のおかげで、小規模の避難先情報が芋づる式に得られたことも多かったと聞きました。

我々岐阜派遣隊のなかで希望を確認したところ、巡回診療よりも行方不明者捜索への参加を希望する隊員もいたことから、班員を2手に分けることにしました。このころには大規模な避難所からは情報が入り始めていたことから、残りの安否不明の避難所への訪問が急がれ、そのうちの一つ、矢本西公民館へ向かうように指示されました。

日差しが弱くなりかけた1600(ヒトロクマルマル)ごろ、目的地に向かって進発しました。津波の破壊力はすさまじく、基地周辺の建物は軒並み流され、辺りに視界を遮るものはありませんでした。道中は時が止まったようで、人の気配も感じられませんでしたが、残骸と化したコンビニエンスストアの前に1台、白黒ツートンカラーの警察車両が停車していました。噂になりつつあった、ATM荒らしへの警戒で立ち寄っていたのでしょうか。たった1台でしたがそれだけでも人間の営みを感じることができ、若干ですが安らぎを覚えました。その反面、モノクロの被災風景のなかに浮かんで見える鮮やかな赤色灯が、あたかも風前のともしびのようでもあり、モノクロの色彩に今にも飲み込まれそうな孤独感が胸に迫ってまいりました。

水たまりのある地域を進んでいくと突如乾いた大地が現れ、津波の到達境界を越えたことに気づきました。目の前には災害派遣が夢ではないかと錯覚しそうなほどの田園風景が広がっていました。やがて向こうから緑色の迷彩柄の集団がやってくるのが見え、陸上自衛隊が本格的に活動を始めていることがうかがえました。自衛官は陸も空も同じと思われるかもしれませんが、彼らは災害派遣の経験が豊富です。被災地に軽々と分け入っていく姿をみて、我々も心を新たに先へ進みました。