交互に巡回診療に出るという松島衛生隊との取り決めに従い、この日は基地内待機の予定でした。とはいっても、昨日の巡回診療は行き当たりばったりの面が否めませんでしたし、そこで得たノウハウを実行する欲望にかられるのは致し方がありません。あわよくば松島側に留守番を押し付けて今日も出るかと話し合っていたのですが、出勤早々松島の後輩医官から「先輩、今日は我々が行きますので、基地をよろしく!」と、逆に機先を制せられてしまい、一同苦笑いするしかありませんでした。もっとも、彼らの地域住民への熱い気持ちもよくわかりますので、ここは大人しく引きさがることといたしました。

基地の復旧はと言いますと、徐々に人海戦術の効果が表れ始めたころで、水没していた体育館等の清掃が進み、部分的ではありますが屋根の下が確保されるようになってきました。我々はというと、いわばよそ者、松島の勝手がわかるはずもなく、時間を持て余すことになりました。診療の仕事はなく、目についた仕事を手伝いながら松島衛生隊の帰還を待つことになりました。明るさという点では幸い薄日が差すこともあり、日中の作業に支障はありませんでした。しかしながら電気はまだ復旧していなかったため、不明者捜索などの作業を除き、多くの作業は日没とともに中断せざるを得ませんでした。
午後に戻ってきた松島衛生隊の活動報告を聞き、はやる気持ちを抑えながら翌日のことを話し合っていると、終礼の時間がやってまいりました。調べますと3月の松島の日没は1730前後、その日は終礼が17時だったと思います。自衛隊には小学校のように運動場に朝礼台があります。それこそ子供達のように各部隊が1~3列ずつ縦に整列して、その日の総括と翌日の予定などを聞くのが日課でした。朝礼と違い夕方の終礼はどことなく安堵の雰囲気が漂っているものです。それは災害派遣中であっても同じで、この日もいつもと変わらぬ雰囲気で待機していますと、若い伝令が慌ただしくやってきました。何だ何だ?と皆の視線が集まる中、登壇と同時に発した報告に我々は言葉を失いました。
「報告する。先ほど福島原発が爆発した模様。詳細不明、追って連絡する。なお、本日2200(ホンジツ フタフタマルマル)から明日0200(ミョウジツ マルフタマルマル)の間、高濃度放射性粉塵を含んだ降雨が予想される。各自、体内被曝に留意し屋内退避せよ」

ややうわずった声で発せられたこの一言一句は、14年経った今でも忘れられません。その場に100人近くは集まっていたと思いますが、予想外の事態に辺りはしわぶき一つなく静まり返りました。思わず見上げた粉雪の舞う夕焼け空が、不謹慎なほど鮮やかだったのが今でも脳裏に焼き付いています。

