東日本大震災⑦松島基地3

 災害派遣中、食事は唯一ほっとする時間で、運搬食いわゆるミリメシにお世話になりました。初日こそ当時最新のレトルト仕様でしたが、翌日からは早々に昔ながらの缶メシ(戦闘糧食Ⅰ型、Ⅱ型)になりました。

主食である戦闘糧食Ⅰ型は米飯で、鶏めし、五目めし、山菜めし、赤飯などバリエーションがあるのですが、鶏めしなどはすぐに消費されてしまい、3日目以降はひたすら赤飯のみになりました。被災地でひたすら赤飯とは何事か、と不穏な雰囲気となっていきましたが、赤飯が後回しになったのは、被災地ゆえに致し方のないことかもしれません。陣中見舞いで岐阜から持参した漬物が、名バイプレイヤーとして大活躍いたしました。食事は残飯の残らないように、すべて食べ切るよう厳命されました。今後定時に食べられる保証はありませんし、生ごみによる衛生環境悪化の予防も目的とされていました。非常事態ですから仕方がありませんが、もち米(?)の缶詰食を3食食べきることはなかなかハードだったことを思い出します。食べると生理現象はつきものですし、かといって行く先はあのバケツリレーの長蛇のトイレですから、便秘などの腹部症状を訴える隊員が増えました。

 やはり水は貴重でした。防疫の観点からトイレ後は手を水で洗いましたが、入浴洗顔は出来ません。歯磨きもゆすぎはせず、口内に残った磨き粉は飲み込んで済ませました。3月の寒い時期でしたので、脱水や熱中症のリスクが少なかったのが幸いでしたが、被災地ではトイレに悩まされるので、飲水を控えがちになることが予想されます。暑い時期では脱水に注意が必要でしょう。

 携帯電話用の基地局が被害を受けていたため、通信はまったく回復しませんでした。当時は携帯電話の頃でしたのでバッテリーは長持ちしましたが、携帯電話が自動的に無線を探すことでバッテリー消費が早くなることから、普段は電源を切っていました。1日のうちに何度か、通信復旧を確認するために電源を入れるのですが、その時だけは故郷につながる気がして心和む気がいたしました。

 花粉症の項でも述べましたが、津波の後、乾燥した粉塵が舞うようになると、アレルギー性結膜炎、アレルギー性鼻炎の患者さんが激増しました。持参する医薬品は内科系の内服薬がメインであったため、抗ヒスタミン薬や点眼薬に限りがあり、以後の派遣では抗ヒスタミン薬や点眼薬を増やしてもらうようにいたしました。また、不眠の隊員も少なからずおりましたが、残念ながら睡眠導入剤は携行しておらず、仕方なく眠気の副作用の強い第1世代の抗ヒスタミン剤で我慢してもらいました。

 基地には近隣住民の方が訪れることがあり、その場合には仮設衛生隊で診療を行いました。あまり知られていないことですが、原則として自衛隊は法律で現職隊員以外の診察が出来ないことになっています。私もかつて基地で催される航空祭で救護所テントを張っていましたが、来場の方が受診されても、擦り傷に対して市販の消毒薬を塗るか、気分のすぐれない方にはベッドで横になってもらう程度でした。重症患者が出た場合は基地正門の外に自治体の救急車に来てもらい、正門までの基地内のみ自衛隊の救急車で搬送してバトンタッチという徹底ぶりなのです。

 幸いにも隊員に重傷者はおらず、非常事態であることから民間の方も診察させていただきましたが、復旧に忙しい基地の中にあって、衛生隊のみ仕事がないことが我々のストレスとなっていきました。