テレビで放送されていましたが、今年はラジオ開設100周年です。日本においてラジオが急速に普及した理由として、関東大震災があげられるそうです。当時から90年近くたった2011年には、ラジオやテレビだけでなく、インターネットも広く普及しておりましたが、結果としては1923年当時と同じ状況に陥ってしまいました。これは地震の規模が想定を大幅に上回り、電気や通信などのインフラ施設そのものが使用不能となったためで、被災地に入りますと、周囲から隔絶されていることがひしひしと感じられました。現地隊員たちは、我々が岐阜から持参した新聞記事をむさぼるように読み、自分達の巻き込まれた災害の規模をはじめて理解するという状況でした。

彼らは一様に冷静でしたが、衝撃を受け止めきれるはずはありません。発災直後のため現実感がなく、気分が高揚しているように感じました。そのためか、必要以上に危険な業務を求めたり、仕事に没頭することで平静を得ようとしているように思えました。また、津波に飲み込まれた被災者を目撃した隊員も少なからずおり、中長期的には心的ストレスの反動が来ることが予想されました。我々としては静かに彼らの訴えに耳を傾け、気持ちを受け止めることに専念をいたしました。

被災地で問題となるのがトイレでした。基地内も水道が使えませんでしたが、幸い下水管は被害が軽かったようで、複数ある庁舎の3、4階のトイレが使用可能でした。トイレには水の張ったバケツがたくさん置いてあり、個室に入るときに2個持って入り、用便をすますとそれらで流す決まりとなっておりました。屋外に津波の海水を貯めた臨時のプールが作ってあり、次の人のためにそのバケツを持って下りて水を汲み、持って上がって終了です。
夜間は街灯や建物の明かりがないため、完全な漆黒の闇でした。その闇の中では車のヘッドライト程度の光量では、反射する建造物がない場所では光が闇に吸収されるだけで、全く意味をなしませんでした。ライトのあたる地面の一部しか見えないため、夜間の単独行動は遭難の可能性があることを実感しました。
2日目の深夜、私たちのところに一人のアメリカ軍人が突然やってきました。休暇中でボランティアとして手伝いたいとのことでしたが、どうやってここまで来たか、まずは米軍に戻らなくていいのかなど、そのフリーな立場を不思議に思ったものです。元々米軍三沢基地から松島基地に出向していた兵士だったのかもしれませんが、事情の分からない我々救難部隊には知る由もありません。同盟国とはいえ諸外国はドライですから、「さすが米軍、早速斥候を送り込んできたか⁉」とちょっとした話題になりました。