翌日の未明0400(マルヨンマルマル)ごろ、病院当直より非常呼集の連絡が入りました。「私物の防寒着の携行も可とする。至急出勤されたし」だけでそれ以外情報はなく、ほうれんそう(報告連絡相談)が命の自衛隊にあって「とにかく集まれ」でしたから、国の混乱ぶりがひしひしと伝わってきました。
当初は岐阜基地所属部隊で合同派遣部隊を編成する予定でしたが、部隊数が多いためか二転三転し、最終的に我々衛生は第4高射群(パトリオットミサイル部隊ですね。現在は中部高射群に再編)にお世話になりながら進出することになりました。
トップの派遣隊長が2等空尉で私が2等空佐、ここで指揮系統における階級逆転が起こりました。軍隊(自衛隊も軍隊に準じた制度を採用)では階級は絶対なので私が隊長になるところなのですが、そこは臨機応変の航空自衛隊、ふだん部隊統率することがない医師の私が引率することがいかに危険なことかは火を見るよりあきらか、阿吽の呼吸で交代を申し出てくれました。
病院長(空将補)らとの協議の結果、最悪のケースとして松島衛生隊は全員殉職していることも想定され、安否確認(死亡確認)の命令を受けました。現地の後輩医官は医大の学生舎で同じ釜の飯を食べた仲、非情に思える命令に大変気が重かったのを思い出します。
出発までの間に時間ができたので官舎に戻りました。津波の被災地に入っていくので、自分の身の安全も保障がありません。人生のけじめとして、家族を和室に集め、家内には迷惑かけること、小学高学年の長女には母を助けるようにと短く挨拶して、下の子どもたちの頭を撫でてから戻りました。
1700(ヒトナナマルマル)ごろ、岐阜基地正門前で基地隊員の盛大な見送りを受け、まずは中継地点の埼玉県の入間基地を目指すことになりました。中央道経由で上京しましたが、普段と変わらない営みに、任務とのギャップを強く感じました。休憩をはさみながら翌日未明0300(マルサンマルマル)頃に入間基地に到着しましたが、全国からの派遣部隊で大混雑しており、トリプルブッキングで宿泊場所がないというハプニングもありましたが、基地内の空き部屋を工面してもらい何とか休憩をとることが出来ました。
