東日本大震災①

 早いものでもう14年の月日が流れました。当時、私は航空自衛隊医官でしたが、第1次災害派遣隊医官として岐阜から松島基地救難に向かったことが昨日のことのように思い出されます。昨年は能登で地震災害も起きましたし、後世に伝えて行かないといけない災害ですので、当時のことを思い出しながら、記してまいります。

当時は岐阜の自衛隊病院におりました。岐阜基地各務原市にあり、日本で2番目に開かれた歴史ある飛行場で、現存する最古の飛行場です。かつて川崎航空機の工場があり、三式戦闘機(飛燕)が誕生したところとして有名ですね。ちなみに最初の飛行場は所沢飛行場で、現在は所沢航空記念公園や私の母校である防衛医大などになっています。

当日は午後の診療の後、1500(ひとごーまるまる)からの医療安全会議の準備中に大きな揺れにみまわれましたが、各務原市は震度3、さほど気にも留めなかったのですが、テレビ放映で地震の大きさを知ることになりました。

みなさん防衛省と聞くと、「実はですね、こんな便利なものがあるんですよ」的な、特殊な通信装置があるように思われるかもしれませんが、業務はいたって普通の内線電話です。当時はガラケーが主流、衛星電話も希少な時代でしたので、まったく松島基地の状態が分からず、防衛省に問い合わせても逆に質問される有様でした。ただテレビでみる巨大津波の映像と内線電話がつながらないことから、海沿いの松島基地も相当な被害を受けていることだけは推察できました。

私は災害時の緊急派遣要員として指定されておりましたので、発令される可能性があることだけは伝えられました。派遣小隊はマイクロバスと中型トラックに、医師、衛生幹部、准看護士、歯科技工士、生理検査技師、放射線技師、ドライバー等計8名で編成されました。情報が錯綜する中、この日は医薬品、飲料水といった災害派遣用の物資の搬出を行い、非常呼集に備えて待機することとなりました。

在りし日の自衛隊岐阜病院